誰にも充てられない手紙のようなもの.03

前回にこの手紙を書いてから約2年の時が流れた。

以前の手紙のようなもので書いたけれども、
僕は転職をしようとしていた。
実際に、転職を果たした。
就職活動時になれなかった、
コピーライターという仕事に
就くことができたのだ。

結果、僕はすごい勢いで文章を書いた。
コピーを書いた。
分厚いA4のバインダーがパンパンになるくらい、
文章を書いた。

そして、この2年で、体を壊した。

眠れなくなったのだ。
毎日、朝の6時まで、起きていた。
そして、起きて仕事に向かわなくてはならないのに、
と思いながら、僕は眠りにつくことができた。
その繰り返しだった。

一度仕事を離れ、
僕はなんとか、眠れるようになった。
今でも、時折眠れない夜はあるが、
それでもなんとか、
人並みの生活を送れるようにはなった。

僕が生きることをあきらめずに、
なんとか社会とつながっていることができたのは、
この期間、支えてくれた人たちだ。
直接的に、支えてくれた人もいる。
ただ、他愛のない会話を夜更けまですることで、
僕の心を和らげてくれた人もたくさんいる。

そこには、感謝しかない。

先日、久しぶりに、ほんとうに久しぶりに、
大学時代から携わっていた演劇をした。
舞台に立つのは、約4年ぶりのことだ。

そこでまた、新しい縁に巡り合った。
そして、新しい場で、新しい自分に出会うこともできた。
変わらない自分を再確認することができた。

結局、自分から逃げることはできない。
生活から、人生から逃げることはできない。
しかし、自ら、その運命を断つことはできる。

でも、僕には、もうたくさんの、
死ねない理由ができてしまった。
ある意味、生かされているのだ。僕は。
生きることを強いられているのだ。
悲観的になっているのではない。
誰かのために生きねばならない。
素晴らしいことではないか。そう思う。

こうして、約2年ぶりに、
個人的な文章を書いてみよう、と
思えたことは、きっといいことだ。

別に誰に読んでほしいわけでもない。

誰にも宛てられない、手紙のようなもの。

しかし、宛先はひとつだけわかっている。
自分自身だ。
自分自身に問いかける。
そして自分自身に発信する。
受け取った僕は、次に何をすべきだろう。
わかっている。

次のステージへ、次の段階へ進むのだ。

先日、演劇で関わった若い人たちの公演を観に行った。
「人生とは動くこと。動き続けること」
僕も、昔から好きな思想だ。
僕の中では、この言葉は村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」だ。
自分のやり方で、自分のペースで、
しかし踊り続けなくてはいけないよ。複雑なステップを。

この作品の劇作家・演出である人とは、もう長い付き合いだ。
お互いにビールと村上春樹が好きで、
朝まで飲んで、起き抜けの布団の中で、
互いが昔お付き合いした女性や友人の名前をもじった
タイトルダジャレ合戦をして、
げらげら笑っていたことを今でも思い出す。

そんな一瞬が、人生の救いの瞬間になることを、
僕は身をもって知った。

彼から、出演者たちへのメッセージ、エールにあふれた公演だった。
同時に、僕もまた、エールを受け取ることができた。
それが、正しいエールなのかはわからないが。

好きな言葉がある。
「表現とは、受け取り手がすべて。」

どんな意図で書かれた言葉であれ、
どんなに稚拙な表現であれ、
受け取り手が感じたことがすべてなのであり、
そこに、創作者が意見を挟む隙間はない。

だから、あれは僕に向けたエールなんだと。そう思う。
この場を借りて、ありがとうと言いたい。

先日、人に贈り物をした。
ここまで、心を費やした贈り物も、久しぶりだった。
贈り物は、想いの表出だ。
金額ではない。モノはなんだっていい。
ただ、自分の想いを、一番「乗っけられる」ものを選ぶ。
選ぶ時間や、そわそわともどかしくなる時間も含めて、
「贈る」という行為だ。

別に、受け取った人がそのモノを大事にしてくれなくたって構わない。
すぐさま捨てられても、質屋にいれられても、
贈られたことを忘れてしまっても構わない。

ただ伝われば。

想いさえ伝われば、
贈り物の役目は終える。
あとは、ただのモノになる。
願わくば、贈られた人の人生において、
大事なひと品になってもらえたらとは思うが、
それは贈り手の関するところではない。
表現と同様、贈り物は受け手がすべてだ。

そういった、
贈るということの本質みたいなものに触れることができた。
それを僕は、うれしく思う。

どこに向かうかの指針も決めぬまま、
ただつらつらとキーを叩いてきたが、
そろそろこの手紙のようなものも、
一旦封をしたいと思う。

この2か月間、意図せず、よく使っていた言葉がある。
それは、「笑う」ということ。
もっと言うと、「笑っていよう」「笑ってほしい」ということ。

人の笑顔が好きなんだと、つくづく思う。

それはたぶん、僕が笑っていたいからなのだと思う。
人を笑わせるのは難しいことだ。
でも、他人がみなむっつりとしかめ面している中で、
自分だけが笑うことほど、空虚で辛いことはない。

ならば、せめて、みなに笑っていてほしい。
大変かもしれないが、笑わせたい。
そういう、自分の中にある根源的な欲求に気づけたことは、
非常に大きなことだ。

先日出演した公演の打ち上げで、
とある人から言われ、突き刺さった言葉がある。
一言で言い表すなら、
「あなたのおかげで、温かい気持ちになれた」
ということだ。

そんなことを言われたのは、
はじめてのことだった。

そんな大仰なことをした覚えはない。
ただ、普通に、ただただありのまま、ふるまっていただけだ。
だけど、それが、人の気持ちの角ばった部分を少しでもとることができ、
柔らかい気持ちにすることができていたのなら。

僕はまだ、生きていていいのだと、
そう思った。

大げさな言葉ばかり使うのは、
自分の悪い癖だ。
でも、誇張なしにそう感じ、
膝から崩れ落ち、震えながら泣きそうになるのを、
じっとこらえた。

こらえた結果、なんかすごい顔で泣いた。
17歳の可憐な涙ならともかく、
30手前のくしゃくしゃの涙は、結構きついものがある。
あれは検挙モノだ。

この場を借りて、謝罪、ならびに釈明したい。


終演後に自分が書いた言葉で、
好きな言葉を
ある意味自分のために、
ここに残しておくことで、
この手紙を終える。

すべてに永遠はありません。
さよならだけが人生です。

でも、関係は続く。人生は続く。
僕らは、もう一度さよならを言うために、
懲りもせず、
再会するのだと思います。


では、また会うその時まで。
その時まで、よく悩み、よく立ち止まり、
そしてよく笑っていてください。

言葉は不思議だ。
自分からあらわれたもののはずなのに、
自分の手元を離れた途端、
まったく別の意味性があらわれる。

共演者に向けた言葉でもあり、
自分に向けた言葉であると、今気づく。

というわけで、
僕もまた、
よく悩み、よく立ち止まり、
そしてよく、笑わせたいと、
笑っていたいと思う。


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